だいだい書庫

長文を書きたかった時の観劇感想のための書庫です

『スリル・ミー』(5/30配信)の感想を思いつくまま

まずは、なんとか2021年公演『スリル・ミー』の3ペアとも観れたことが本当に嬉しい。結局、配信でしか見れなかったけれど。大阪公演が止まるなこれは...…と察知してからずっと、配信か円盤か何か映像が残らないかお願いだから……と願っていて、各1回限りの本編配信が告知されてからも、本当に観れるのか当日その時間になるまで不安だった。やっぱり劇場で観たかったが、これはもうどうしようもないし、正直なところ、配信だからこそクリアに観れたところもあるなと思っている。

何はともあれ、この舞台の開催と配信の実現に尽力された全ての皆様に感謝を。

 

さて、以下は、念願のにいまりペアの感想をとにかく書き残しておきたいという、そういう走り書きです。

ネタバレありきですし、舞台から受け取ったものは皆それぞれ自分の心の中にあるのが真実なのだというのが前提です。また、以下は、あくまで俳優が演じた「役」と「役の関係性」の感想であって、中の人のことでは一切ありませんので、そこはよろしくお願いします。

なお、以下で、役名の「私」と「彼」を書く場合、基本的に「」なしで記述します。このため、筆者の一人称がある場合は平仮名わたし、とします。

 

 5月30日 17時~配信 田代私・新納彼


先の2ペアとはまた違うんだろうなと思いつつ観たが、まあもう全然違った。

すごいね。2人の関係性だけでなくて、たどり着く結末も全然別ルートで。同じ台詞、同じ歌なのにね。本当に舞台は不思議だ。

でも、そうだね。同じ台詞、同じ脚本でも、演者とほんのわずかな演出の違いで全く違うものを観られるって、幼い時に『ガラスの仮面』でならったよ。

そもそも日本公演版が、固有名詞をできるだけ排除した抽象的な作りになっているわけだが、今回の3ペアの中のどれかにスタンダードに近いものがあるのだろうか。ていうかこれ、3ペアともに、私の造形も、彼の造形も、たどり着く私と彼の関係性も全然違っているのだが、スタンダードってあるのか。


田代私と新納彼の場合、対等というのも通り越して、「ふたり、おんなじもの」と感じた。

ほとんど同じ色の同質なものがふたつ、両側からロープを握りしめて引きあっているようなそんな印象だった。

ほんの一瞬、力が勝った方に引きずられることを繰り返しているので、力関係がその時々で変わっていくように思えた。私の方の渇望が強烈だが、彼の方も私を必要としていて、お互いが、お互いのことを欲しいと思っていて、両側から絶えずロープを引きあっているような。そういう感じで。

この2人の関係を、公式からキーワードとして出ていた「究極の愛」でまとめてしまって良いのかわからないけれど(こんな渇望を愛と言っていいのか)、でも確かにこの2人の関係性はとても複雑だけど同時にとてもシンプルなんだよな。お互いが必要、ただそれだけ。

 

そして、彼が優しい。どうしようもなく優しい。
ただし、これは先に他の2ペアを観てしまっているから、他の2人の彼に比べて優しいと感じるだけなのかもしれない。どうなんだろう。この物語を全く初見で、新納彼をいきなり観たら、ひでえやつだなと思うのかな。
でも、あのあまりに情緒不安定がすぎる(のに自分は結構ちゃんとしていると思っていそうな)私が相手なら、優しくならざるを得ないわなと思わんでもなかった。彼は、私の扱い方を間違えると、本当に危ないことをよくわかっているから。
幼なじみでずっと見ているから、私が何を嫌がって、何を言ってやったら喜ぶのか、どうしたら言うことを聞くのか、どこまでのラインなら彼の言葉を素直に聞いてくれるのか、どこから先になったら報酬をやらないといけないのか、よく知っている。

 

この彼は、私のことを同類だと認めているし、必要だと思っているし、多少乱暴に扱うけど、その扱い方には慣れていて、絶対に壊れないようにそっと握っているような、そんな印象だった。でも、割れないようにと、そっと手を添えて持っているつもりだった水の詰まったゴム風船が、いつのまにか特大の爆弾にすり替わっているの怖すぎるよね......。

彼は、私のことをよく知っているつもりだったけれど、やはり年相応に未熟だったために、少しずつ変質していっている私に気が付くことができなかった。衝動の先に現実がやってきた時に、自分の身を守りたいという本能的な欲求に負けて、私の取り扱いを間違えた(私だけが取り調べを受けた後の公園のシーン)。それで、あんなことになった。そんな感じだった。

 

「超人たち」のところで、彼が最初から最後まで、自分たちがやったことの興奮で気持ちが高ぶっているように見えて、そこには歓喜の方が強く見えたことが印象的。怯えは見えなかった。自分がやったことへの恐怖はあったのかもしれないが、表に見せる必要がないぐらい高揚感が勝っていたような。
そして、自分にそれをさせてくれた私のことをとても愛おしく思っているように見えた。私を後ろから抱きしめて、首元に顔をうずめるところが、それまでの、私への報酬としての行為ではなくて、衝動的に愛おしくてやったという感じだった。

 

そういえば、初めから、新納彼には諦念が見えた。
幼なじみのレイが、自分より頭が良いことに嫉妬する段階はもはや過ぎていて、仕方ないと思っている。父親に認めてもらえないことに怒りを感じているが、同じくらいに諦めも持っている。
でも完全に諦めきれるほどには大人にはなれず、怒りはずっと静かに燻ぶっている。その燻ぶった炎を抑えるのが、私を巻き込んで一緒にやっていた「ほんの悪戯」の数々だった。

(ところで、わたしは、上の兄弟姉妹からの負の感情を見たことのある下の兄弟姉妹の方なので、彼が示す弟への憎しみについて、大変微妙な気持ちで観た。)

 この新納彼からにじみ出ている諦めが、私と彼が引っ張り合っているロープのたわみを大きくしたのかもしれないし、私が変質する原因になったのかもしれない。
彼が私を巻き込んでやっていたことは本当にただの遊びで、一歩踏み出せば大きな犯罪にいつでも踏み出す危うい場所にはいたが、ただ気を紛らわせるだけのつもりだったように見えて。「殺人」を口にしたときも、言葉として出てきた時点でもまだ本気ではなく、「幾ら君でもそんなの無理だ」と言う私との応酬の間に本気の側に振れたような印象があった。それまで同じものであった2人が徐々にすれ違いだした、それであんなことになった。

 

終盤の護送車のシーンで、「思いが届いて良かったね……」という感想を持ってしまったのにはさすがに動揺したよね。「良かったね私……君が全部仕組んで、全部ばらしたのに、彼は君の全部を認めてくれたよ……」みたいな感情が出てきた。

このシーン、先に観た2ペアだと、ぎりぎりで繋ぎ留めていた彼(福士・成河ペア)、もしくは2人共犯者になったことで繋がりが生まれかけた彼(山崎・松岡ペア)の心を、私が全力でぶっ壊しにかかり、ここで彼と私の関係性は完全に崩壊したところだと思っていた。
でも、新納・田代ペアのこのシーン、全てを受け入れた彼が、自らの心も壊した私のことを心底案じているシーンになっていたように見えた。

 

今つらつらと書いていて気が付いたのだが、わたし自身はなんとなく、この話の終わりは護送車のシーンなんだなあと思っている。あのシーンの後に、同じ刑務所の中で、彼と私がどういう関係性を続けたか、続けられなかったのかというところまでは色々と想像してしまう。
でも、この物語の本当のラスト、34年前の所持品を返され釈放された私が、その先どうしたのかというところは、なぜか全然想像がつかない。トークイベントで田代さんが演出の栗山さんの言葉として紹介していた「透明になる」ではないが、あの解き放たれた瞬間に、私は消えてなくなるぐらいのイメージがある。どの私も。そして、田代私の場合、特に。なんでだか、あの先どうしたかを想像することができない。

刑務所の中で彼が死んだときに、私も一緒に死んでいて、あの審理官の前に立っている私は抜け殻で。

ああでも、更に書きながら思ったのだが、「じゆう…?」と初めて聞いた言葉のように不思議そうな顔をして自由の身になったあの私、およそ20年以上ぶりに、彼が死んだ以降で初めて彼の姿を見たんだな。
それで心は戻っただろうか。やはりそのまま消えてしまったんだろうか。