だいだい書庫

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【感想メモ】「エリザベート」コンサート2022inシェーンブルン宮殿

ずっと、ミュージカル「エリザベート」ウィーン版を字幕つきで観たかったので、歴代キャスト大集結という貴重なコンサートがWOWOW放送で、字幕つきで観られて嬉しかったという話。好きだったところ、ここ日本演出版とこんなに違うんだな!と驚いたところなどなどを思いつくままに書き散らしたメモである。初見の印象を残しておくのは後の(主に自分の)ためになる。まあ、CD聞きまくっているので厳密には初見ではないのだが。

 

以下、ネタバレを大いに含みます。日本演出版とウィーン版は大きく演出・構成が違うところがあり、日本版をご覧の方でも、ウィーン版未見・未聴の方には大きなネタバレになってしまうのででご注意ください。なお、今回のはコンサート版なので、ウィーンでの全編上演時との演出ともまた違うところが多いと思われます。あと、マジで思いつくままのメモなので大変読みにくい。

(ウィーン版の全編映像は2005年版のものがDVDになっているが、冒頭の死者たちのシーンの皆で歌い継ぐところがルキーニのソロとコーラスのみになっていたりするので、ウィーン版の中でも結構特殊な演出の時のものが映像化されたのではないかと思われる)

 

シェーンブルン宮殿を背景にした野外コンサートで、冒頭はこんなに明るいうちから始まるのかと驚いたのだが、黄昏時に幕を開け、中盤で日が落ち、終幕の頃には闇の中になっているという最高の舞台演出だった。

黄昏時の結婚式のシーン、本当に空が薄く暗くなりつつあり、半分黄色が混ざり始めた時間に合わせてきているのがすごい。

 

ウィーン版は、なんというのか全体的にロックであり、苛烈だなあと思っている。

また、トートの異質さが、黄泉の帝王という超越した存在というよりは、明らかにその時代の人ではない存在がそこにいるという感じ。「死」は、ただ「死」としてそこにいる。それで、この「死」が別に陰惨な存在でもなく、えっらい元気だったりする(2005年版映像のマテ・カマラス氏イメージ)。

今回のトートは、白タキシードで短髪で、泰然たる態度がかっこよかった。時々薄く笑うトート。なお、今回のキャストに関しては、別にまとめてみた。

motosato12.hatenablog.com

 

総じて演者の歌がばちばちに強くてすごい。説明ができないが、うまい、すごい、強い……みたいな感想になる。技術や歌唱力レベルが高いということもあるのだろうけれど、音楽と原作の言語がぴったりはまっていて、オリジナルの強さってこれなんだろうなと思ったりした。音が尖っているところと、言葉の発音がすごく合うといえばいいのか。あと、ルキーニの口上の終わりと音楽の切れ目がない(間髪入れずに音が入る)の、テンポがよくてすごく好き。

 

コンサート版だからか、少女時代のシシィ役が立てられているのだが、貴族の子としての礼儀作法をしつけられていながら、好奇心旺盛で天真爛漫で無邪気なシシィですごく可愛かった。

舞台セットがシンプルで、舞台中央に据えられた枠が、扉にも鏡にもトートの登場シーンにも何にでも変容していく。とはいえ、セットはシンプルだが、なんせ背景(シェーンブルン宮殿)が豪華すぎるのではあるが。

シシィが落ちるのはブランコからという設定で、このブランコに入れ替わるように乗って、シシィへの愛を歌うトート。このトートは、人知を超越した存在というよりも、ただそこにあって、ふと振り返ると目の前にいる「死」であるという感じだった。ブランコ設定はコンサート版ならではらしい。

 

「愛と死の輪舞」は、ウィーン版では「Rondo - Schwarzer Prinz(闇の王子)」というタイトル。トートからだけでなくシシィも応じていて、2人のデュエットになっていく。この時、シシィははっきりとトート(死)の存在がわかっていて、何も恐れない子供の無邪気さではあるけれど、確かにこの時トートの愛という誘いに答えていたんだよなあ。「怖くはない」「あなたのそばに居させて」と。

トートは少し嬉しそうな惜しそうな得難い表情をしていて、シシィが確かに自分を受け入れたという手応えを持っていたように見えた。いつかシシィが自分を望み受け入れてくれることを確信していたから、シシィを現実世界に戻したのか、というように。そら、これでフランツと結婚したら、トートも結婚式まで来て「最後のダンス」歌うよなと思った。

 

フランツの執務室。「冷酷に」「冷淡に」と言い聞かせるゾフィーと取り囲む群臣の中で、母の言うようには徹しきれず、個人としての善良さへの迷いがまだあるフランツに見えた。絶対的な母と、経験豊富な群臣たちに囲まれて中央に立つことの重圧に耐えて、皇帝である自分を抱えて、一人の民衆の母に手を伸ばそうとする迷いを見せたフランツは、後に父と対立する青年ルドルフよりも若かったんだよなあとふと思った。

フランツはゾフィー帝王学を叩き込まれて、感情を殺して生きることに長けているかもしれないけれど、母を頼りにはしており、母が隣に立っていること自体がほぼ無かったであろうルドルフというのが、この舞台の後半に返ってくるよなと思いつつ見ていた。

 

バート・イシュルでの出会いのシーン、この公演ではシシィの姉のヘレネが、賢く大人しく堅実に育てられている子なんだなという印象で、個人的にこの辺りの展開への理解が深まった気がする。「ヘレネの恰好は何?」と問うゾフィーのセリフは、別に娘が奇妙な格好をしていたということではなくて、皇帝にそぐわない服装だったので、もっと格式のある格好をして準備してこいと言いたかったんだろうなあという感じがはっきりわかった。

ヘレネが良い子なんだよ。いや本当に皇帝に嫁ぐにふさわしい教育を受けているという点では、ヘレネとフランツは、共に同じ目的の場所で生きるということでよく似合っていたんだろうなと思う。皇帝とその皇后になる時に何を犠牲にしなければならないかというこの前提条件をすでに理解しているのがヘレネで、この点を本当に全く理解していないままに選ばれてしまったのがシシィ。

ここで選ばれなかったヘレネが、悔しそうな顔やシシィを羨むような顔をするでもなく、ただ落胆し、自分が認められなかったことで自分自身を責めているという表情のように見えて、いや本当によくしつけられたいい子だったんだなヘレネと思った。

 

この後のシシィとフランツのデュエットで、フランツの言葉を無邪気に受け止めているようで、フランツが言っていることの意味を本質的には何もわかっていないシシィ(彼女が悪いわけではない)というすれ違いの歌が本当に見事なんだよなあ。最初のシシィの表情が何もこの状況を疑わずに、シシィの無邪気さの全力でフランツに向かおうとしているのがすごく可愛くて、すごくもどかしいね。

フランツは、最初から最後までアン ドレ・バウアーさんが演じているので、少女役シシィとは結構年齢が離れていているのが気になるかなあと思っていたけれど、始めから意識としては老成しているフランツという対比になっているように見えて、これはこれですごく良かった。

あと、首飾りの入った箱を持って立っているのが、なんとも言えない表情のルキーニで(2人には見えていない)、こういうルキーニの関わり方の演出が面白い。

余談なのだが、ここ日本版演出(少なくとも2016年東宝版DVD)では、フランツがじゃらぁとポケットから剥き出しの高価な首飾りを出すの、とても好きだが、なんで君はケースに入れていないんだ?????と心の底から突っ込んでいたので、ウィーン版がちゃんとケースに入れて出してきて安心した。持ってきたのがルキーニなのが最高に不穏だったが。

首飾りをつけてその重さを知った瞬間、初めてシシィの表情が陰り、それまでの無邪気にフランツを見つめていた目に、不安が入り混じってくる細かな変化がすごく上手い。

 

黄昏時の結婚式を、本当に黄昏時に合わせてやっているのが、野外コンサートの最高の演出だった。結婚式のシーンの音楽がとても好きである。原作歌詞、なかなかに難解な歌詞なんだなとわかって驚いた。

シシィが言った「はい」を、自ら復唱した上で高らかに笑うトート最高でしたね!?

 

最後のダンス。広間から誰もいなくなった現実との間でトートと会うのではなく、宮殿の中で、フランツがそばに居ながらトートの存在が同時にわかるという「最後のダンス」なの面白いな。

 

今回の、この歌詞の翻訳がどこまで元の歌詞に忠実なのか、日本演出版の雰囲気に多少寄せたところがあるのかはわからないのだが(「闇が広がる」という言葉などは寄せていたようなので)、日本演出版に慣れていると、すごくきついなあその台詞というところが時々ある。新婚のシシィに言い聞かせるフランツの言葉とか、最後に縋ってきたルドルフを拒絶する時のシシィの言葉とか。

 

「私だけに」のみ、作曲家リーヴァイさんが指揮をするという特別演出。

エリザベート役、若い時とそれ以降と2人で演じ分けるというコンサート版ならではの配役ということで、なんとなく1幕ラストの三重唱のところ、有名な肖像画そのもののシシィが登場するところからマヤ・ハクフォートさんになるのかなあと思いつつ、でも「私だけに」のソロをマヤさんで聞けないのはちょっと残念だよなあと思っていたら、まさかの「私だけに」の途中で入れ替わる演出で驚いた。2005年ライブ盤CDで聴いていた時、「私だけに」後半のマヤさんの歌い上げがすごく好きだったので、後半マヤさんで聴ける!ってなった時にとてもテンションが上がった。

 

小さなゾフィーの棺の形状(開けることはない)がすごくリアルで、これをトートが抱えてくるのと、この後のトートのソロ(闇が広がる)の中で口角だけ上げて一瞬笑う表情が怖い。それまでのトートからシシィに向ける「愛」が、小さなゾフィーの死の段階で別のものに変容したというか。ただシシィだけをを求めていたトートが、シシィの周囲の死をもたらすものに変わり、シシィにはっきりと疎まれるようになっていく。

この辺から、夕闇の色が濃くなっていくのもいい。まだ完全に夜にはなっていない時間。本物の空の色が、最高の舞台演出なの本当にすごい。

 

カフェのシーンは、日本版演出の印象が強かったので、この曲を字幕付きで観て、かなり衝撃的だった。このカフェに集い、新聞を読んでは、文芸欄と今日のスープの味と一緒に政治を語る彼らは、社会が衰退の方に向かっていくのを知りながら、嘆くだけで無関心で何もしなかった知識人層ということなんだなと。ここには革命家はいない。

 

扉を開けてくれのシーン、物理的に扉がなくても成り立つの、なんか新しい発見という感じだった。枠だけのセット、何にでも見立てられて面白いなあ。ここで、シシィからフランツへの最後通告に続いて、フランツと入れ替わるようにやってくるトート(普通に扉にみたてた枠を通って現れる)、この時のトートの歌声がなんかだとても優しい。人が弱っているところにするりと入ってこようとする死という感じ。そして、それに厳然と抗うシシィ。シシィにド直球で「嫌い」と言われているのさすがに、トートがかわいそうで笑った。

 

そして、「ミルク」なんですよ。いやほんと、原作歌詞の苛烈さよという感じ。

ルキーニの煽り方がうますぎる。前半の「ミルクがないのは、皇后が風呂に使っているからだ(意訳)」という内容はおおかた日本演出版と同じなのだが、後半の歌詞(日本語版訳詞だと「皇后の美貌が~」のくだり)は、意訳すると「あの皇后は、櫛で髪をといては抜ける髪がかわいそうだって嘆いてるんだってさあ」という内容だったのびっくりした。物語的には、美貌の維持と向上に力を注ぎだしたシシィという半分は本当で、2幕のキッチュでも言及されるように、半分は作り出されたエリザベートのイメージが人々の間に広まっているということか。ルキーニが裏声でシャウトするところがすごく好き。

 

「私だけに」三重唱も、やはり原歌詞は情報量が多い。フランツは、君との間に母は介入させない、ってはっきりと言ってるんだな。そして、ぜんぜん引いていないエリザベートがほんと強い……ってなる。フランツは、皇帝としてのこれまでの自分の生き方を押さえてでも、貴方を尊重し貴方を選ぼうということを言っているけれど、そこまで譲歩した宣言を聞いても、エリザベートは、あなたと共に歩むけれど私の生き方はそのままにとはっきり言っている。ところで、ここのトートが「俺を避けても 時は俺の味方(字幕)」とさらっと言っているの、なかなかに怖いなと思った。そうだねトートの最強の武器は、待つことと、待てることだよな。

また、日本演出版の歌詞「お言葉 嬉しく伺いました」という言葉が出てくるのは、日本演出版として脚色したエリザベートならではということで、日本語詞もすごいなと改めて思った。ウィーン版のエリザベートは、こんなこと絶対に言わない。短い言葉の中で、日本演出版独自のエリザベートのイメージをさりげなく作っているのはさすが。

 

後半も書きたいので、そのうち追記する。

ルドルフのことを、ルドルフのことを書かねばならんのだ絶対に。マイヤーリンクの時に、呻いてるんだよなこのルドルフ……死に翻弄されながら呻いている……心がえぐられるわ……